《『平間の渡し』と『矢口渡し』の分かれ道に位置する光明寺》 2008.09.18更新
江戸名所図会に見る「大金山光明寺」、本尊縁起や功徳水、荒塚、観音堂、当麻曼荼羅、善導大師影像などの記述と光明寺池の事が書かれている。
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光明寺

写真では寺の位置が同じ高さに見えるが、現地にて確認すると寺はやや小高い位置にある。池は工事の塀で囲まれ確認できなかった。10年間に渡る環状八号線建設による墓地移転で、光明寺は寺域が狭まり、右絵図に見られる伽藍を巡らす大寺の雰囲気はなくなった。
光明寺総門
  写真
  武州鵜木光明寺略図 甫山画 年代江戸期 詳細は不明 大田区立郷土博物館蔵


《江戸時代には行楽場所のひとつとなった…鵜の木・光明寺


『光明寺』は、天平年間(729〜749)に行基が開き、のちに空海が再興して関東高野山として真言宗の大寺だったという。七堂伽藍を持つ寺の偉容は上の絵を見ても分かる。江戸時代には浄土宗鎮西派に改宗、関東弘通最初念仏道場となった歴史を持つ。

光明寺の板碑(いたび)
光明寺は数多くの「 板碑」が出土したことで有名です。鎌倉から安土桃山時代に掛けて作られた板碑の密集地で、その数は120基あまり、全国でも五本の指に入るほどです。調査によれば、一番古いもので正応5年(1292)から永正15年(1518)までという。板碑とは、板石状の卒塔婆の事です(石に彫られた供養の文字と考えたら良いでしょう)。誰でも板碑を創れるものでなかったらしく地頭や豪族クラスにしか持つことが出来ないものでした。このことからも、光明寺が豪族クラスの菩提寺であったことが推察されます。光明寺の墓域に五輪塔などの古い石塔など集められた所は、荒塚と呼ばれています。ここは古くからの豪族江戸氏の墓であると言われています。
光明寺が古くからの寺であり、江戸時代には大きな信仰(安産祈願)を集めていた、上の絵図からも推察されます。

道標写真
光明寺道標
環状8号線の脇にある
光明寺池

鵜の木光明寺の発掘調査
光明寺本堂右側にある上墓(ウワンバカ)は、中世の板碑が大量出土した貴重な遺跡である。環状8号線の工事に伴い調査が行われた。平成元年(1989)から3ヶ月の短い期間であったが、先史時代から中世につながる墓地であることが確認された。
(参考『史話』36号 大田区

光明寺池・写真は
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住所 大田区鵜の木1-23-10 〈最寄りの駅〉多摩川線「下丸子駅」下車 3分ほど
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