《平賀源内が書いた人形浄瑠璃は、歌舞伎『神霊矢口渡』となる》 2008.02.26 更新
神霊矢口渡浮世絵
『神霊矢口之渡』香蝶楼国定 天保14年〜弘化4年(1843-47)大田区立郷土博物館蔵    

《浄瑠璃や歌舞伎で有名になった『矢口の渡し』》

歌舞伎『神霊矢口渡』のあらすじ………
 渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯(にったよしみね)と傾城(けいせい)「うてな」がやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峰に一目惚れしてしまいます、そのため、かなわぬ恋と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃しました。それを知った頓兵衛は後を追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を切り捨て、あとを追って行きます。瀕死のお船は二人を逃すために、太鼓をたたいて追って欺むきます。追いすがる頓兵衛に、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。………と言うような悲恋物語である。

写真
頓兵衛地蔵堂

矢口の渡し」は歌舞伎『神霊矢口渡』で有名になった。
 作者は福内鬼外(ふくうちきがい)こと、讃岐国出身の平賀源内(1729〜1779)である。最初は人形浄瑠璃で、明和7年(1770)に上演された、思いのほか好評で「江戸浄瑠璃の名作」と言われた。その後、寛政6年(1794)、歌舞伎にもなって人気を博した。話の場所は「矢口の渡し」で、恋のため我が身を犠牲にする娘の物語。いかにも江戸の人々が好みそうな話である。

 『神霊矢口渡』は明和七年(1770)の1月16日、江戸の外記座で初演。当初から評判が良く、その秋には大阪の竹本座でも上演されました。歌舞伎の中でも「小芝居」と言われるジャンルに属し、小さな小屋でも演じることが出来ました。

 「地芝居」というジャンルがある。これは寺社の境内で演じられた芝居である。『神霊矢口の渡し』は、地方の歌舞伎演目のひとつとして定着している。村の神社境内や素人歌舞伎で演じられている。そのため日本中で知られることになりました。現在でも演目のひとつとして、地方の祭りなどで演じられています。


平賀源内ひとりの戯作ではなく、浄瑠璃特有の形式や約束事があるため補助(すけ)を頼んでいます。『神霊矢口渡』には補助作者として、吉田冠子、玉泉堂、吉田二一の3名が知られています。

歌舞伎『神霊矢口渡』の浮世絵が『早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション』で見ることが出来ます。利用規約に従い検索してください。「浮世絵」の検索で、画題窓に『神霊矢口渡』と入れると、5種類の「神霊矢口渡」浮世絵を見ることが出来ます。



江戸名所図会に見られる「矢口古事」
 雷が鳴り、黒雲の中に鎧姿で弓を持ち白馬に乗った義興があらわれ、遠江守に撃ちかかるようであった。遠江守は落馬して従者により屋敷へ運び込まれたが、七日間水に溺れるように苦しんで死んだ。その古事にならった画である。(注)画は2枚のページを見やすいように繋なげてあります。
 

矢口渡しと江戸近郊散策コース……
 江戸から旅に出るとき、南品川から平間街道(古池上道)を通り池上本門寺に参拝、そのまま進み光明寺をお参りして「矢口渡し」から多摩川を超え川崎に至る。こんなコースを選んだ江戸庶民もいたのではないかと考えると楽しい気持ちになる。

矢口の渡し」は大正8年(1919)に、すでになくなっていたと言う説もあります。また、内田和子さんの「多摩川流域の渡河点」(多摩の歩み28、1982年)によれば、『矢口渡しの廃止は昭和24年 多摩川大橋の架設による』ということです。

  高橋松亭 版画
右の写真は川瀬巴水の「矢口」東京20景、昭和3年(1928)版権所有渡邊庄三郎 拡大表示

左の写真は高橋松亭(弘明)の新作版画「矢口」である。夕景の矢口の土手風景か。渡邊版画店、明治42年(1909)から大正12年(1923)。拡大表示

     
高橋松亭 版画
ぱねる写真


写真は、
現在の矢口の渡し付近、案内板がポツンと立っているだけ。中世の頃、渡しは新田神社のすぐそばにあった。多摩川の流路が変わったのである。

上の写真は高橋松亭(弘明)の新版画「都南八景内」矢口之渡しである。左に土手道から続く渡し場が見える。渡邊版画展、大正11年(1922)3月。拡大表示

  多摩川写真
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